宝泰寺について

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宝泰寺について

 

私たちの宗門

宗派
臨済宗妙心寺派(禅宗)

宗旨および教義
お釈迦様の正法を受けつがれた、礼祖達磨大師、宗祖、臨済禅師、さらに大本山妙心寺開山無相大師に及ぶ、一流の禅を宗旨および教義とします。

本山および寺院
正法山妙心寺(京都花園)を大本山とし、建武四年(1337)花園法皇の勅願によって創建され、開山無相大師の法流は四派に分かれて、全国三千五百ヶ寺に広がっています。

本尊
釈迦牟尼世尊をひとしく大恩教主と仰いで尊崇し、宝泰寺は創建の因縁により釈迦牟尼世尊をおまつりしております。

経典
お釈迦様の正法をそのまま心に頂く宗旨ですから、特に経典は一定しませんが、主に般若心経、大悲呪、観音経、開甘露門、坐禅和賛、宗門安心章等をお誦みします。

宗風
宗門は僧俗ともに禅の安心を求める同信同行であり、開山無相大師の「請うその本を務めよ」の御遺誡と、開基花園法皇の「報恩謝徳」の聖旨をたいして佛法興隆を実践する教団であります。

信条
自心佛であることを固く信じて坐禅にはげみ、本当の自分にめざめ、どんな苦難にもくじけず常に足もとを見つめてくらしを正し、生かされている自分に感謝しつつ、世のため、人のためにつくします。

檀信徒
檀信徒は花園会員として和やかに力を合わせ、社会を「心の花園」に、と念じて正法をひろめるようつとめます。

 

宝泰寺の歴史

 宝泰寺は山号を金剛山といい、臨済宗妙心寺派の中本山で、末寺は二十八寺ありました。興津の清見寺、静岡の臨済寺と並んで駿河三刹と称されました。本尊は釈迦牟尼仏であり、もとは真言密教の道場として、七堂伽藍を備えた立派な寺院であったようです。時移りて、衰微していたのを永徳元年(一三八一年)無文元選禅師(後醍醐天皇の皇子)がこの地にまいり再建したと伝えられています。
 その後、百七十年余を経て諸堂が荒廃していたのを弘治三年(一五五七年)雪峰禅師が再建されました。よって、雪峰を中興の祖としております。
 雪峰の師、亀年禅師が妙心寺に住した因縁により、以後妙心寺派となりました。雪峰は天正五年(一五七七年)に入寂しました。
 ところが、十一年後の永祿十一年(一五六八年)戦国時代の名武将武田信玄が駿河に侵攻した折に沿道の寺院・民家はほとんど焼きつくされ、宝泰寺も焼失してしまいました。その後駿河は武田に支配されました。その後(一五七〇年~一五九一年)武田家から与えられた朱印状、安堵状等が現在でもお寺に残っております。
 栄えた時代には境内に塔頭が九院も有りましたが、天文年間(一五三三年)から天和年間(一六八三年)に至る間に六院を廃し、江戸時代には近松院・徳雲院・種徳院の塔頭を持ち、五十石の朱印地をも賜っておりました。朝鮮や琉球王朝の使者が東海道を往来するとき宿泊所になりました。
 明治十年近松院を廃し、昭和十九年には種徳院を篭上の円成寺に移籍し、現在は徳雲院だけが市内国吉田の地に再建されています。
 境内は戦前は一万平方メートル(一町歩)も有り、坐禅堂、阿弥陀堂、経蔵、牛頭天王堂等がありました。戦災や、戦後の区画整理で大部分縮小されたり、焼失してしまいました。
 昔の鎮守堂は、毘沙門天を祀るもので天保十年(一八三九年)に当山十六世月州禅師が建立したものであります。
 建物は武田信玄公の駿河侵攻によって焼失した後復興したものが、安政の大地震で倒壊し、その後再興されましたが、昭和十五年の静岡大火、二十年の戦災と二回にわたる災厄にかかり焼失します。その後、庵原の旧庄屋の建造物をこの地に移転し、本堂兼庫裏として使われました。
平成五年本堂以外の客殿・庫裏・隠寮・山門・薬医門を建設しました。平成八年檀信会館サールナートホールを建立し、様々な文化活動を行っています。
その後、多くの方の要望があり、永代供養のために円明堂を創りました。
令和元年本堂を再興し、上間の間に開山様の守護神半僧坊、下間の間には、朝鮮通信使の関係の資料を展示しています。このようにして宝泰寺の建造物はすべて一新されました。

静岡市の産声は宝泰寺から

 明治二十一年九月十五日、静岡市制準備委員会が設けられ、第一回の委員会が宝泰寺で開かれました(『静岡市広報誌』昭和六十二年四月十五日)

開山さま

宝泰寺開山
無文元選禅師

 宝泰寺のご開山(寺を開いた高僧)は無文元選禅師です。後醍醐天皇の皇子と伝えられています。十八歳のとき、出家しました。建仁寺の明窓宗鑑禅師のもとで得度し、可翁宗然・雪村友梅の二禅師について、禅の道を学びました。二十一のとき、中国(当時は元の時代)に渡り、福州大覚寺の古梅正友禅師に八年、ひたすら参禅し、大悟得法したのでした。禅師は帰朝して、京都の岩倉等に隠栖しました。しかし禅師の道風を慕って多くの人々があつまり、六十一歳のとき、遠州奥山の地に錫を移します。この地に方広寺を開創されました。さらに各地を歩かれ、美濃の了義寺、駿州の地に宝泰寺を開いたのです。
 禅師は仁慈温容で、怒りの色を見せたことがなく、病苦悪疫の人々にも薬療沐浴を施し生佛と喝仰されました。六十八歳に「平生顚倒。今日即当。末後の一句、雪上に霜を加う」と辞世の偈を書して遷化されました。

中興開山さま

宝泰寺中興開山
雪峰禅曽禅師

 ご開山・無文元選禅師が入寂して、百七十年余、宝泰寺の諸堂は廃頽してしまいました。一五五七年、雪峰禅師により宝泰寺の堂宇は立派に再興されました。その功により、中興開山とします。
雪峰禅師は亀年禅愉禅師の法を嗣いだ方でした。亀年禅師は妙心寺霊雲院の大休禅師によって印記を受けました。
亀年禅師は妙心寺に出世し、後奈良天皇から照天祖鑑国師の号を賜っています。
なお亀年禅師は妙心寺塔頭退蔵院中興開祖で、雪峰禅師も師の後、退蔵院に住しました。
(天正五年八月二十五日寂)